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長野地方裁判所 昭和33年(タ)1号 判決

原告(反訴被告) 土屋義栄

被告(反訴原告) 土屋茂子

主文

原告(反訴被告)と被告(反訴原告)とを離婚する。

反訴被告は反訴原告に対し金十五万円を支払え。

訴訟費用は、本訴反訴を通じてこれを二分し、原告(反訴被告)と被告(反訴原告)との平等負担とする。

事  実 〈省略〉

理由

一  離婚請求について

(一)  公文書であつて成立の真正を認むべき甲第一、第二号証(中略)を総合すれば、次の認定に導かれる(前掲証拠中以下の認定に牴触するものはいずれも採用しない。他にこの認定に反する証拠はない)。

原告と被告とは、昭和二十八年十月五日結婚式を挙げ、同月八日結婚の届出をすませた。時に原告、被告とも二十七才であつた。この結婚は、下仲人丸山文彦夫妻の熱心なとりもちがあつたとはいえ、そしてまた、事前に当事者相互の交際や調査が十分になされなかつたとはいえ、主として当事者自身の自発的意思の合致に基くものであつた。被告は結婚と同時に、下水内郡豊田村の原告方に、原告のほか、その父母弟妹達五人と同居することとなつた。原告の父はその頃はまだ郵便局員であつたが、昭和二十九年には退職し、その後は田畑若干を所有するところから、農業に従事し、原告の母は家事以外格別の仕事はなかつた。

原告は、昭和二十四年八月以来保健所に勤務し、結婚当時は飯山市の飯山保健所に勤めており、爾来今日に至つている。被告は、昭和十七年四月看護婦の資格をとり、以後殆んど看護婦生活を続け、結婚当時は中野市の宮本医院に勤めており、結婚により一旦辞めて家庭に入つた。しかし同医院からの依頼により約一箇月後に復帰し、原告方から通勤するようになつたが、昭和二十九年四月からは、原告のすすめもあつて小学校の養護教員となり、爾来現在に至つている。つまり、原被告は、結婚後一箇月位してから、いわゆる共稼ぎ夫婦としての生活を始めたわけである。

そうしてこの結婚一箇月位からすでに、原被告間には、とかくしつくりしない空気がかもし出されるようになり、小さな口論や気まずい沈黙やがくりかえされた。翌昭和二十九年の正月に、被告が宮本医院で宮本医師の妻から、原告方の家族と別居するのかと聞かれたこと、その頃丸山文彦の妻から、原告の父が同人に原被告夫婦と別に暮してもよいと述べたことがあると聞かされたこと、及びこれらのことから、被告は原告に対し、原告の家族が自分を追い出そうとしていると訴えたことなどがあるが、被告がそのように感ずるのは、当時としては思いすごしであつたといわなければならず、他面その訴えが、原告とその父母とを親子喧嘩させようとする被告のもくろみだと断ずることもできない。昭和三十年二月二十六日、即ち衆議院議員の選挙の前日、被告は明日投票をしてから実家へ行くと言つていたが、原告の妹が嫁ぎ先から顔をみせると、急に今日帰ると言い出して、その日に実家へ帰つたことがあるが、原告が主張するように、当夜丸山文彦宅へ泊つたということはなく、又同宅で、原告の母から追い出されたと涙ながらに訴えたという事実も認め難い。

このような一、二の例からも分るように、被告と原告との間のみならず原告の家族との間も早くから円満を欠き、一家団らんの機会は乏しく、原被告双方に和合のための努力も十分とはいえなかつた(原告がその打開策として、被告に対し夕食後家族そろつて茶を呑むよう提案したことがうかがわれるが、その程度のことではもとより足りない。)この間被告は、丸山夫妻とはうまがあうところから、同人宅へはよく立ち寄つていたこと、及び昭和二十九年二月頃あやまつて穴倉に落ちて流産し、子供にめぐまれなかつたことがあり、これらも右の傾向を助長したものといえる。

昭和三十年三月十一日夜、原告方において原告は被告に対し、茶を所望したのに返事がなかつたため、かつとなつて被告をなぐり、ためにその前頭部、顔面等に全治までに七日ないし十日を要する打撲傷を負わせる出来事が起つた(被告は直ちに丸山文彦宅へ逃れたが、まもなく立ち戻り、オーバーと鞄とを持つて家を出たこと、その直後自ら附近の中島医院へ赴いて手当をうけたが、右の額がいくらか青く、こぶができている程度で、他に特別異常は認められず、しつぷを施されただけであつたこと、被告は再び丸山宅へ帰つたとき倒れたが、右医院から看護婦が来て再度容態を診たところ、右と異るものは認められなかつたこと、翌十二日中島医師が被告を往診した際も、前頭部や手がいくらか腫れている程度で、体温も平熱であり、しつぷをして帰つたこと、被告は同月二十三日勤務先の小学校の卒業式に出席したこと、などの事実があり、これらから考えると、当日原告が被告主張のような激しい暴行に及んだものとはうけとれない。しかし原告の茶を所望した声が被告に全然聞えなかつたということはなく、又被告が丸山文彦を利用して原告を脅したということは認められない)。

被告はこの日から翌四月二十一、二日頃実家へ帰るまで約四十日間、丸山宅に起居して小学校へ通勤した。この間、丸山宅と原告宅とはすぐ近隣であるのに、右出来事があつた当日、原告及びその母が被告を見舞つた以外は、原告の側から被告を訪れたことも、又被告自身原告宅へ立ち寄つたことも、全くない。もつとも被告は丸山方で療養中、一度丸山かづ江を介して原告の母に肩をかりたいから来て欲しいという意向を通じたこと、又丸山夫妻がこもごも原告方や仲人の土屋孝範方を訪れて、被告の引きとり方や見舞に来るように頼んだことがあり、更に被告の叔父小林万夫も同じく土屋方や原告方を数度たずねて、被告の円満復帰のため、詑びを入れたことがある。しかしこれらはいずれも原告の母や原告及び仲人などの消極的な態度によつて効を奏しなかつた。一方被告もまた、丸山方にいた約四十日の間、殆んど毎日原告方の前を通つて小学校へ勤務しながら、原告及びその家族との和解の機会を持とうとしなかつたばかりか、同年三月十九日には、原告を飯山駅附近で捉え、離縁状を書けとか、服を買う金をもらいたいとかと言つて、原告を追及することがあつた。その後被告は前述のように実家へ帰つたのであるが(結局事態が一向好転しなかつたため、いつまでも他人の家に厄介になることに忍びなかつたためであろうと推認される。)、同年夏頃、民生委員兼教育委員の清野茂が、原告の父の依頼により、被告を学校を訪ねてその真意をただした際も、原告に女があるから帰れないと述べたことであつた(この間、原被告が第三者に向つて互いに相手方を非難する言辞を吐いたこともあるであろうことは、右にみた諸般の事情からも容易に推測し得るが、原告主張の如き程度のものを認めるには足りない。しかしまた、右のような事情から、被告主張のように、原告側が被告を計画的に追い出そうとしていたものだとの推論を導き出すこともできない)。

この間にあつて仲人土屋孝範は、右出来事があつた数日後の同年三月十七日頃、小林万夫に対し、仲人をやめる、被告を原告方へいれるわけにはゆかぬと述べ、その後も同人に対し、同年七月始頃には、被告の籍を持つていつてもらいたいと、同年九月頃には、親類会議できめたことだから被告を原告方へはいれない、籍をとつてもらいたいとそれぞれ申し入れた。ところでこの地方の慣習では、結婚に下仲人及び仲人がたてられるのが一般である。下仲人は結婚のまとめ役であり、話がまとまればこれを仲人にひきつぎ、原則としてその役割は終る。結婚式には客として招待されるだけである。これに対し、仲人は下仲人からひきつぎをうけると、爾後夫婦生活全般について相談に応じ、殊に夫婦仲が円満にゆかぬ場合は、実父母よりもむしろ前面に立つて、これが解決の任に当るならわしである。しかるに、土屋孝範にはかようなことがみられなかつた。これは、被告及び下仲人である丸山夫妻に、前述した三月十一日の夜以来の経過において、土屋孝範の右のような仲人たる地位と役割とを無視した傾きがみられないでもなく、少くとも同人はそのような感じて丸山夫妻に、延いて被告に、反情をいだくに至つたためであることが看取される。昭和三十一年四月一日付で、被告は現在の水内小学校へ転勤した。この転勤の理由は必ずしもはつきりしない。これより先同年三月頃、原告は小林万夫に対し、更に、同年五月頃直接被告に対し、被告との離婚を申し入れた。もはや原告としては、被告と結婚生活を継続することができないと覚悟したためであつた。しかし被告はこの申し入れを拒絶した。離婚の決心がつかなかつたためである。そこで遂に、同年六月原告から被告を相手どつて、長野家庭裁判所飯山支部へ離婚調停を申し立てたが、被告が離婚をする意思がなかつたため、同年八月不調に終つた。その後原被告は、依然として別居生活を続けている上に、同年九月には、原告が原告方に残されていた被告の荷物全部を、被告及びその家族の承諾なく被告の実家へ運び込んだことがあり、更に翌三十二年四月には、原告は親類のすすめもあつて、宮本長次郎の媒酌により佐野よし枝と事実上の結婚をし、爾来原告方において同棲し、一男をもうけて現在に至つている。

(二)  かくして、原告は昭和三十二年八月二十六日本訴を提起し、被告もまた翌三十三年五月十九日反訴を提起して、それぞれ離婚の意思を公然と表明するに至つた。このことと、原被告各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨に徴すれば、原告はもとより被告もまた、現在かたく離婚の意思を有すること、及び本件訴訟において目指すところは、離婚に際しての財産関係の処理、換言すればいわゆる離婚給付の解決に存することが明らかであつて、前出(一)の事実関係とあわせて考えれば、原被告間の結婚そのものは、すでに回復不可能なまでに破壊されていること、換言すれば客観的にも完全に破綻しているといわなければならない。従つてもはやこの結婚を継続し難いことは明白であるから、民法第七百七十条第一項第五号に基く原被告相五の離婚請求は、ともに理由ありとなすべきである。けだし、かように、原告及び被告が、それぞれ本訴及び反訴において離婚の請求をなし、客観的にもその結婚が破綻していると認定される場合は、恰も離婚の合意に客観的保証の存するが如きものであつて、もはやそのこと自体を以て離婚を認めるのが相当であり、すすんで離婚原因の仔細な探究、就中どちらに主たる責任があるかなどの具体的な究明(その結果一方の離婚請求を認め、他方のそれを認めないなどの如き)は、凡そ無意味であるからである。

よつて、原告の本訴離婚の請求及び被告の反訴請求は、ともに認容すべきものとする。

二  慰謝料請求について

(一)  さて、被告は原告に対し慰謝料として金五十万円の支払を請求する。しかしその趣旨は、単に原告の有責不法な行為によつ離婚するに至らしめられたため蒙つた精神的苦痛に対するいわゆる慰謝料のみならず、婚姻関係係属中における実質的な夫婦共有財産の清算及び離婚後の扶養料等をも含めた、包括的な離婚給付を求めるにあることが、本件第十二回口頭弁論期日における釈明に徴して明らかである(第十二回口頭弁論調書参照)。してみるとこれは、民法七百七十一条、第七百六十八条(以下単に第七百六十八条のみを引用する)に基く財産分与請求にほかならない。

即ち、民法第七百六十八条は、離婚によつてそのままでは不利益を蒙る離婚当事者に対する、財産的救済のための、包括的統一的な法的保護制度である。その不利益とは、夫婦が協力によつて得た財産が相手方の財産として存置されること、相手方の有責な行為によつて離婚するのやむなきに至らしめられたについて受けた損害、及び離婚後当面するところの相当な生活を維持することの困難などが、その主要なものとして挙げられる。これら主要な不利益に対応して、夫婦間における実質的共有財産の清算を中核的要素とし、離婚にともなう損害賠償的要素及び離婚後の扶養料的要業をも包含する、独特の且つ一個の離婚給付請求権が、同条に定める財産分与請求権にほかならない。かく解することが、立法の沿革、条文の体裁、現実の機能及び合目的的配慮等からみて、正当であると考える(もつとも、一般にはこの財産分与の裁判は、実体法上の権利としての、財産分与請求権の存否を確定するものではないと解せられている。おもうに現行法上、それが非訟事件として取り扱われていることは、家事審判法第九条第一項乙類第五号、第七条、人事訴訟手続法第十五条第一項ないし第三項、第七条等に徴して、否定し得ないように思われる。しかし、これはいわば立法の裁量に基くものであつて、財産分与の請求が、元来紛争性と共に権利性をも有することは明らかであり、このことを認めることと、右の取扱いとは、必ずしも矛盾しないであろう)。

以上の次第で、被告の求めるところは、結局この意味の財産分与にあると認められるから、以下被告の附した法律上の見解にかかわらず、右請求を民法第七百六十八条に基き金五十万円の財産分与を求める申立とし、前述の基準に照らして判断する。

(二)    (イ) 原告と被告とが結婚し同居していた期間は約一年七箇月であり、昭和三十一年三月十二日以降は住居も生計も別箇独立である。而して右期間中共稼ぎ生活の関係上、被告が家庭において原告のため格別の寄与をしたふしは見当らない。ただこの間宮本医院の看護婦として得ていた給料及び小学校の養護教員として受けていた俸給中から、合計約四万円を原告の母に差し入れている。しかしその大部分は、原告との結婚生活における費用について、当然被告が分担すべきものを提供したにすぎないとみるのが相当である(ただその幾ばくかが、原告が支出すべきその父母弟妹達への扶養料即ち消極財産の増大の防止に役立つたものとみてみれないことはない)。他に被告が原告と協力して得た財産なるものは見当らず、その協力の程度自体、とりたてるべきほどのことではない(前出一の(一)の事実並びに、証人土屋初以の証言及び原被告各本人尋問(各第一、二回)の結果に徴して認定する。被告本人尋問(第二回)の結果により成立の真正を認める乙第四号証の二の各記載事項は、その記載の態様自体から到底、当該年月の当時に記載せられたものとは認められないから採用し得ない)。

これを要するに、原告と被告とが夫婦である間における実質的共有財産と目すべきものは、現に存在するものとしてはもとより、原告に化体して将来産み出され得べきものとしても殆んどとるに足りないといわなければならない。

(ロ) 次に、原被告間の結婚の破綻については、どちらにより責任があるであろうか。前出一の(一)においてみたところから次のように考える。昭和三十年三月十一日における原告の被告に対する暴行は何としても行き過ぎである。このことが破綻の重大な契機となつたことはみやすい道理である。しかしそれはむしろ破綻の原因ではなくて結果であるとみるべきではなかろうか。共稼ぎの夫婦がよく円満な結婚生活を維持するには、相互に余程の理解と愛情とがなければならず、またその家庭の場における周囲の家族達も、彼等にとりわけ深い理解を持つことが肝要であること、殆んど自明の事理に属する。しかるに、原被告結婚の当初から、これらの者の間に、かかる精神的基盤が欠如していた。結婚後一年余のうちに右のような出来事が発生し、爾後再び正常な夫婦関係にかえり得なかつた所以は、そこにあると思われる。なお原被告別居後、事態を極度に悪化せしめたについては、仲人が前述のような事情から、慣習上要請せられている仲人としての役割を、適切に果さなかつたことも指摘されねばならぬ。従つて右にみた限りにおいては、原被告の一方のみを責めることは適当でない。しかし決定的なことは原告の佐野よし枝との事実上の結婚であり、同棲であり、子の出生である。この点原告には全く弁解の余地がないといつてよかろう。而して、被告をしてかたく離婚を決意せしめたのは、このことあるを知つてからだと推認するに難くない。してみると、かくして離婚するにおいては、その小学校養護教員としての社会的地位と名誉をも考えるとき、被告の精神的苦痛は甚大といわなければならず、原告はこれが相当の慰謝をなすべきは当然である。

(ハ) 被告は看護婦の資格を持ち、現に小学校の養護教員である。現在その俸給は手取金額一万二千円位で、生活はさして困難ではない(被告本人尋問(第二回)の結果により認める)。離婚後早晩この生活が維持し得なくなるとの可能性は、今のところ見当らない。再婚が不可能だとする根拠もない。しかしながら、当代社会においては一般に離婚婦は自活の道を歩むにせよ、再婚を志すにせよ、離婚した男性に比して不利な社会的評価を受けねばならぬことは多言を要しないところである。被告の場合この離婚婦特有の社会的不利益を負うべき事態と異る状況を看取し得べき何らの資料もない。

以上の諸事情を総合勘案すれば、被告がこのまま離婚するにおいては、財産的、精神的及び社会的に種々の不利益を受けるのであつて、この不利益に対応する離婚給付、即ち財産分与として、原告に対し相当の金員を請求し得るものとなすべきところ、原告は現在手取月額約金一万三千円の俸給を受けている(原告本人尋問(第二回)の結果により認める)。ほか、他に格別の資産を有しているものと認めるに足りる資料はない(当事者間に成立の真正について争いがないことに徴して、その成立の真正を認むべき甲第四号証、也第五号証の一から四までを調べてみても、原告個人の資力がどれ程か、原告自身農地を所有するか否かを的確には把握し得ず、その他の証拠からも、本文のように判断するのほかはない)。ので、その他本件にあらわれた一切の附随的事情をも斟酌して、右金員の額は金十五万円を以て相当とする。

三  結論

叙上の次第で、原告及び被告の本訴及び反訴各離婚請求はいずれも認容すべきものとし、被告の反訴中財産分与を求める申立については、原告に、被告に対し金十五万円を支払うべきことを命ずることとし(前述のとおり、財産分与の請求は非訟事件として裁判されるところから、被告の申し立てた金額には拘束されず、従つて右金十五万円を超える部分について、主文において請求棄却をうたう必要はない。又財産分与による給付義務は、離婚が効力を生じたときに始めて発生すること、財産分与の本質上当然であるから、離婚判決確定前にこれに仮執行宣言を付することはできず、従つてこれが申立は却下する。)、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八十九条、第九十二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 高野耕一)

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